大河ドラマのはなし(べらぼう)

視聴している人にはくどい話になってます。

文章慣れしている人にもくどい話になってます。

■ 最終回が気持ち良かった

最終回に主人公の蔦重とラスボスの一橋様の死が描かれていてそこもおもしろいな~と思いまして。

〇 一橋様の死

一橋様はべらぼうのラスボスで、全ての原因の根幹の人であり誰も太刀打ちできない鉄壁の人だったんですが、毒(睡眠薬)を盛られ、殺しではなく島流しとして退場。

っていうのが前話で描かれ、一橋との因縁が終わったのかとようでしたが、最終回の冒頭に島流しの輸送途中に逃走しラスボスの復活を一瞬見せるんですけど、雷に打たれ沼地で死ぬんですね。

これが最高だったなと。

何が最高だったの?っていうと、自分はあるものが別のものに置き換わる演出が好きで。

文字だけだと「逃走した一橋が雷に打たれ沼地で死ぬ」なんですけど、

この3つ「逃走」「雷」「沼地」

「逃走」は天から見ていた家治様

(一橋様に毒を盛られ死の間際に「天は見ている」と釘差して絶命された家治様)

「雷」は源内先生

(一橋様の策略に嵌り暗殺された、死後作中度々『雷獣』として描かれていた)

「沼地」は田沼殿

(一橋の策略により味方を暗殺され孤立化させられ、結果地位と名誉を剝奪され仇をとれなかった)

の天にいる田沼派の3人が天罰を下している図に見えるなあって思ったら熱くなりまして。

擬物化(なんていったらいいんだろう)に思えるのは、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と同じそう思い込むから見えるだけとも言えるけど、

そう思わせるほど一橋様の悪行と、それを生前に摘めなかった無念を思うとそうに見えてくる演出が最高だったな~と思っています。

なので、沼地っていってるけど本当に沼地だったのか自分がそう思い込んでるから沼地の可能性もあってもう1回見直したら普通に川やないか~い!の可能性もある。

見たいものを見たんじゃ…。

また力のインフレ問題も解決してていいな~と思いました。

ラスボスの一橋様のイメージ「執念深い・用心深い・隙が無い・誰も信用していない」っていう、先手を打ち誰も太刀打ちができないタイプの頭一つ抜きんでる強ラスボスだと思っていたので、上位存在からの「天罰」もしくは「運が悪かった」で終止符を打つのは好みだな~と思いました。

作中にいる人物誰も太刀打ちできなかったのに誰かが無理やり殺すだと今までの丁寧な策略合戦はなんだったの?とも思うし、処刑は史実に無いから歴史改変になっちゃうし、島流しが妥当か?と思いつつ頭をよぎるは鎌倉殿であった不安因子を残すといつか強大な敵になって復活されるっていうやつ。生かしたままでいいのか?のモヤッと感を解消されて個人的には納得感があって好きです。

個人的に一橋様が用心深いなと思ったのは、話の冒頭は結構物をパクパク食べている描写が多く食べるものが上等なモノばかりだったので嫌味なキャラの意味なのかな?と思っていたのですが、『一橋様の暗殺=毒殺』のイメージが固まる辺りから食事シーンが無かったように思っていて、誰よりも早く毒殺を使用してる分対策が早かったんだろうな~と思ってまして。自分がすることは相手も必ずするはずの思考もあると思うんですけど。

それよりも能面とか浄瑠璃の描写を多くして斎藤十郎兵衛の匂わせの方が重要だったから無くなっただけの可能性もあるんですけども。

〇 蔦重の死

打って変わって蔦重は最後の最後にさわやかな最期でしたね。

ただ、夢で宣告を受けて死を受け入れようとしてるとこに周りが死ぬな死ぬなとあまりにも賑やか過ぎるもんでちょっと余裕があるところ少し笑いました。

ホラー映画が怖いから付き添いに友達呼んだのに、友達の方が怖がり過ぎて思ったより怖がれなかったみたいな感じの。

イカの人と最後の言葉はなんだろね予想をしていたのですが、「拍子木聞こえねえんだけど」はわからんよ~ってあはは~って笑って終われるオチのついた話で、おもしれぇ!って感じで、「どんど晴れ」って感じで、読後感がさわやかで良かったです。

https://www.youtube.com/watch?v=4Eg1SC30tcY

NHK公式YouTubeで最終回ラストの動画があるので何度も見て泣き笑いしてます。

おおん…。総集編は29日。29日です。

べらぼうのオープニング、3回変わっているうち最終章の映像の中でサブタイ写すところ、

蔦重が中央に居て、遠くの日本橋の町並みを七福神と囲んで眺めてるのを見て、

蔦重の死はあったかいものになるんだろうな~と思ってはいたのですが、

最終回にエンディングに持ってきて、絵巻物を見るみたいに横スクールで絵が流れていって蔦重の酸いも甘いもすべてのものがグアーっ!と渦を巻いて、蔦重人生のエッセイ本ここに完成!って作りが、最期まで蔦重はものつくらないと気が済まないんだなって終わりで蔦重を尊重しているみたいで好きでした。

作中で蔦重が本づくり下手くそだったのはエッセイ「蔦重栄華乃夢噺」を執筆してるから才が全部そっちに持ってかれたんだろうなってところも笑えて良い余韻を感じてます。

■ 対・鏡合わせ

話の作りが基本的に『蔦重視点の町民パート』と『田沼殿や越中守視点の政治パート』の2つの視点が対・鏡合わせになって物語が進行していくのがおもしろかったです。

別カメラで場面の補完だけじゃなくて、起こっている物事の対比とその対処に微差が生まれてちょっとずつ結末が変わっていく様が、人と人の差ってこういう時に意見を飲むか飲まないか、自分を貫くか否かで周りの評価が変わってくるよなあ~っていうボタンの掛け違いの差を見ててハラハラしたりとか。

例えば、蔦重が幕府がやっている取り締まりが気に入らず躍起になって周りの人たちの制止も聞かずに越中守をこき下ろす本を作ろうとしているその一方、城の方では自分の出した政治についてこない市民に憤ってしまい周りの意見の聞かずに怠慢だと決めつけてより厳しく縛ろうとする…みたいなそんな感じの。

基本的に町民パートは横のコミュニティのお陰で、誰かが暴走しそうになると大体ストッパーがいて止めてくれるのに対し、政治パートは縦のコミュニティのせいで基本的にストッパー役がいない(口答えできる人が居ない)が頭のいい人たちの集まりだったり義を重んじる人の集まりだから自ずから改めたり改めなかったり。

町民側は暴走しても悪くてぶん殴られるぐらいだと思うんですけど、政治側はすぐ首飛ぶから下手な事できないんだろうなあと思うと暴走できるレベルが全然違うとは思うんですけども。町人・政治の持っている価値観や質の違いをサラッと人の機微で物語にのせる構図がすごいなあと。やってみて~。

「対・鏡合わせ」の構図。1話内の話の構成として目立ってはいたんですが、バックの大きな括りとして主人公の蔦重とラスボスの一橋様も対・鏡合わせの構図だったんじゃないかなあと思っておりまして。

どこが?というと「自分はやらずに他人に行動させてのし上がる」っていうからくり?システム?の部分。

で、どこにその差があるかというと、利他的なのか利己的なのかこれだけなんだと思ってて。

「他人」に対して、蔦重は利他的に行動していて、人とぶつかりながら心を通わせ信頼を育み「他人=家族・仲間」であったのに対し、一橋様は己の血筋の反映のため利己的に行動した結果「他人=踏み台(物)」として暗躍し登りつめていく行動をとっていました。

だから最終回のスタートに一橋様が復讐・天罰により1人孤独に死ぬ描写、家族・仲間に囲まれながら死んでいく蔦重の描写がラストにくる『対・鏡合わせ』の答え合わせとして入ったんじゃないのかなあと思ってます。

でもこれ少しでも蔦重が「本屋が大きくなったのは自分ひとりの成果」と勘違いして利己的に行動をしていたら、一橋様の暗躍がどこかで失敗に終わり利他的な行動をとるようになったら結末は反転してたんだろうなっていう紙一重の構造がおもしろいなあと思ってます。

これは個人的なことですが「自分と人は合わせ鏡」っていう考え方、大事だと思って気にしてるからなのかもしれないです。

自分結構短気で思い込みが激しく親を中心に色んな人を困らせてきた部分が多く、イカの人にはっきり言われるまで気づけない阿呆だったので、反省を踏まえてもっそりやってます。気を引き締めてこ。

■ 好きなキャラ

鶴屋さん、春町先生、越中守が好きです。

〇鶴屋さん

序章の中ボス枠で吉原に対するふるまいからあまり好かんなあと思って「おのれ鶴屋…」って見てたんですが、そうだよね鶴屋さんには鶴屋さんで守るべきコミュニティがあって蔦重が侵略してきたから体張って守ってただけで、でも色眼鏡を外して蔦重を見て仲間に入れる懐の深さ、その後頼れる味方で常に蔦重を叱咤してたのは鶴屋さんだった…。おおん鶴屋さん…。

鶴屋さんの表情や仕草には出にくいけど、一度認めたら身内びいきでさりげなく援助してくれる姿勢…風間さんが演じるからこその良さもあって最高でした。

〇春町先生

モブから蔦重の一派になる(ネームドになる)時のぶっきらぼうで気難しい曲げる気のない性格…の印象が強く、あまり好かんなあと思ってはいたんですが

実際は物づくりに真摯過ぎて人よりもものづくりへの情熱・信念の方が強過ぎるあまり気難しい人ではあるけれど、面白いことに素直で仲間のためならプライドも折れるし切腹できるぐらいものづくりと仲間に物静かながら心の内に熱いものをもっている人で春町先生の死はやはり衝撃でした。豆腐食べる度に思い出す。

特になんですけど、春町先生は作中直球で「作った本が売れない?やだやだ評価欲しい!」

って駄々こねて気分損ねるところとか、その後の「上司が面白いって言ってくれたからもう良いや」みたいな刺さる層に刺さるならそれで良いみたいなムーブが共感だったり切り替えうまくていいなとかなんだか馴染みのある悩みが親近感沸いたっていうのも好きポイントでした。

〇越中守

田沼殿を失脚に追い込み春町先生の仇の後半の中ボス。独りよがりで上げ足取ることを目的にした政策があまりにも独善的で、これまでの豊かだった世の中をグチャグチャにした敵としてあまりにも好きになれず「おのれ!!!越中!!!!」って気持ちで見てたんですが、

あまりにも人を善いものと信じすぎ良し悪しを自分の定規で測り続けた結果、経験が無いのをいいことに周りにどんどん嵌められていく様がなんとも…。

越中守は単純に曲がったことが嫌いで生真面目で心が清いだけだったんだなあ…。

田沼殿の失脚も春町先生の件も越中守からみると先に喧嘩売ってきたのはお前だろうが!って思うと一方的に越中守責められないんだよなあ…。

幼少期、田沼殿に嵌めらた事件が無ければ切磋琢磨良い関係で世を正す仲間の1人になってたんだろうなあってのが越中守の人柄で想像できてなんとも…。

一生懸命に背伸びしていいように使われて江戸の市中・城内には越中守の悪評だけが蔓延って、プライドが高そうな越中守にはしんどかったろうな…が勝ってここまでじゃないけど似たような経験あったなあって思い出し同情の方が勝りました。本気で江戸が良くなるように尽力してただ空回っただけだけどその空回りを許される立場ではない人なのだと気付いた頃には取り返しのつかないところまできててあああ(涙)

久々に真っ当なツンデレを見た気がします。

なので最後に耕書堂に来て思いの丈ぶつけてたのは良かった。黄表紙全部手に取ってニコニコしてたのも良かった。

すごくどのキャラも個性的で人情があって魅力的でした。演じられた役者の方の力量が凄過ぎて素直にテレビCM見れない体になってきました。


ここからは感想というより思ったことをぽつぽつ。

■「モノ」としての人

人を使って暗躍する一橋様。作家を焚きつけて物を作らせる蔦重。

「自分はやらずに他人に行動させる」っていうからくり?システム?の部分は同じことをしてはいる、それは利他的か利己的かの差だと上でも書いたのですが、でももっと根幹の部分に大きな違いがあると思っていて、それは蔦重は自分の事を「モノ」とする意識があるところなのかなあと思いました。

蔦重の出は吉原で差別に慣れてしまっている分、他の身分の人よりも自分に対して(人間として)諦めがあり「人」としてのプライドは無かったもしくは少なかったんじゃないかなあと思っていて、

特に「人から見られた時の自分の評価」っていう視点が少ないように感じます。

これ言ったら怒られる(自分の世間の評価が下がる)かも、とか、これ言ったら嫌われる(自分の好感度が落ちる)かもとか。そういうの無いからいらんこと考えず即行動に移せるというか。

対して役割や役職などの責任感(吉原の本屋、日本橋の本屋、町民としての亭主)というものは強く感じましたが、あくまで責任部分がどう評価されるのかが重要で、本屋が評判になるなら蔦重はニコニコ喜んで泥被る。自分自身も演出のための小道具にする。

序盤、源内先生に「吉原観光の本作るからあらまし書いてよ!」って交渉しに行くのですが、「じゃ~お前さんが花魁になって接待してくれたら考えなくもないよ」そういう返しが来た時に、

考えはせども割とすぐ「じゃ、やってみます?」って飲むんですね。

これが流されてそう返事した、のではなく、蔦重の花魁に対する意識・男色の源内先生の嗜好・蔦重個人の羞恥ここら辺がフラットで単純に花魁の姿で接待するのが得する、天秤にかけるときに 個人の気持ち<吉原本の箔 だったんだろうなと。

というより、そもそも蔦重の中で天秤が壊れているから自分に係る重さが全くないんじゃないかなあとも思っていて。

環境が蔦重の性格を形成していると述べたばかりですが、蔦重が脚気になった際「今年いっぱいの命だよ~」ってお医者に言われた時の「死に際の店主が最後に書いた本って売り出したら同情で結構売れると思うんだよね~書こうかな~」この発想が、性質由来もあるのかもしれないなとは思いました。

(ただここは妻のおていさんに対して心配させないようちょけてるようにも見えるし、子を成せなかった蔦重がせめて世に残していきたい物として本を書こうかな、にも見えるし多分いろんなものを含んでのセリフだとは思いますが)

蔦重は自分からするとあまり人らしくない人物だな~と思って見ていました。

代わって一橋様。だけに限らず越中守や幕府側に居た人はおおよそ、人としてのプライドが大変高くとても人らしかったなと。

現代の人の価値観ってこの城に居る人たちと同じなのでは?と思っていて、最低限の衣食住はあり、栄養のあるものを口に出来て身体は元気、教養があり、志があって、役職・役割・肩書きを持って何者かでいれる。生活にある程度余裕があるから、己の評価を気にする余裕もある。自分がどうしたいかの選択肢の自由があって自分をブラッシュアップできる。

ようは生活水準が高いから自分の意味・価値を重きに生きられるよねっていう話で共感できる部分多いよなあって話なんですけども。

そう思うと自分の言う「人らしい」っていうのは何者かになりたくて足掻いてる、欲がよく見える己に素直な人のことなのかもしれない?わからない。

なのでそれをわかった上で世のために尽力していた田沼殿や越中守などの利他的に行動していた武士達に対し、一橋様の利己的な自分の血筋を広げなければならない行動はすごく原始的な欲で良かったな~と思います。

少し脱線ですが、血筋や人脈は尊いものだと思うのでないがしろにする考えは好きじゃないですが、あくまでそれは身内間の話であって関係の無い所に持ち出してくるのは黙ってろって感じではあるので、血を絶やさない事には賛同するけどそれを『外の人も同じように我々の高貴な血を皆敬うのだ!』というのは傲慢であまり好きではないのです。脱線でした。

一橋様は己を人の上に置き、上から目線で周りをモノ扱いし、蔦重は下からの目線で同じモノ同士がんばろうぜ~っていう体裁が関わって気持ちいいものかどうか、そこの違いも大きかったのかもなあ。

「モノ」の話に戻りますが、自分の言う「モノ」には2種あって、自己(人間性)を度外視していて物体である という考え方と、役職・役割・肩書きを重視し本心はどこかに置いている人、建前。

基本的に二つ目の建前は基本誰もがやる事だけど、自分度外視(物体化)は蔦重のバックグラウンドがそうさせた蔦重の魅力であり、被害の痕なんだろうなあと思ってます。

どうでもいいことなんですが蔦重を物で例えるなら、「翻訳機」だったんだろうなあと思っていて。

他の人のやりたいことや言いたいこと、1人ひとりの尖っていてくすぶって言語化できないものを作家から引き出し大衆向けにならす行為が得意なんだろうな~と思っています。物事をフラットに見ているから人に対してもフラットに接することができるのかなと。


ここから少し、ゴミコラの事も交えての話になってしますのですが、

今回のべらぼう、おもしろいおもしろい言って見ていたのは、ゴミコラでやりたいこと・出したいことが被っていたからなんだよな~と思っていて。

マイナスな意味ではなくて、共感という感じです。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のそれではあるんですけど、

見たいように見た結果、そう自分が見ているだけってこともあるのですが。

冒頭、吉原が大変だ!助けてくれ!って田沼殿に直談判した蔦重に「お前何かしているのか?」と言われるシーン。

あれ、ざっくり言うと「被害者ムーブしてんなよ」ってことと個人的には残ってて。

行動しない奴が結果も評価も期待しても無意味だし、必要な手の差し伸べ方かもわからん。

頭と口より手足動かせ。どうしても手足が6本必要になったら来い。

そんな感じ。

蔦重は「モノ(物体)」としての意識が強いからすぐ行動に移せたと思うのですが、人によっては「助けるのがお役所の仕事じゃねえのかよ!」って意識が止まってしまうんだろうなと。

どうしてもそこには人としてのプライドが出てくるから。

言葉が良くないのですが、被害に慣れてしまっている人は言葉を感情を表に出すこと・相手に伝えること自体を行動だと思い込んでしまっている節があるように思えて、ただ他人からだと情報が出ただけにしか見えない気持ちのズレがあるのではないかと。

だから「助けて」って言ったら全ての人が空気読んで助けてくれるって錯覚してしまうけれど、受け手としては「それで?」。

その言葉の後には「何してほしいの?」が続くけど、「それで?」の言葉が拒絶の言葉に聞こえてしまって助けてくれないんだ!って行動できなくなってしまう。

あとは経験や成功例が無いから頼むしか方法が無いってふさぎ込んでしまう場合もあるかなと。

吉原にいる楼主、彼らは自分たちを「俺達は忘八だから」。忘八とは儒教の八徳(仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌)を忘れた外道とべらぼうの作中では説明され、楼主達も悪党として蔦重の前に立ちはだかります。がその中身は「俺達は人って皮を捨てて概念としてこの吉原を見ていないと心が摩耗してやっていけない」人達だったのだと途中で思わさせるシーンが度々あり、「自分は人じゃないから」人として顔をしかめる様なことも簡単にやってのける。それが己も含めた皆を守るものになるっていう覚悟で行動しているところに蔦重が人として意見してきたから冒頭の辺りはフルボッコにされていたんだろうなあと。

ゴミコラの話になりますが、ゴミコラの登場人物は役職・役割・肩書きの「モノ」を持ちつつ、そこに更にさっき話した「概念」的なものをくっつけていて、自分はこの概念をゴミコラ説明する時は「仮面」で説明しています。ピエロとか能面とかキャラによってイメージは違うんですけども。

なのでその仮面をいつ脱ぐか・付けるかどうなるかそういう話が主になっていければな~と思ってもそもそやってます。。

ちょっと笑い話なんですけど、べらぼうにちょこちょこ能面だったり傀儡が出てきたりで少し焦ってました。「べらぼうおもしろかったから仮面とか傀儡のアイデア設定にくっつけたでしょ~」って思われそう(元々構想にあったけどまだ情報開示してもわからないから出してなかった)ってちょっとドキドキしてまして…。

でも大丈夫。世の中の慣用句や例えはそういうもんだから…。パクリとかじゃなくて深く考え調べていくとみんな同じ答えに辿り着くもんだから…(言い聞かせ)

ゴミコラ、王道をそのままストレートぶち込み、因果関係(?)も独創性もなくゴチャッ!と詰め込んでるから…。似たような要素とか展開のもの見つけるとパクリと思われんじゃないかって心臓バクバクする…(前もブルスカで同じこと言った)

ここまでズラッと感想を述べてたのですが、全てゴミコラのフィルター(塩ノ見の創作スタンス)を介して見ていたっていうのがデカくて、もっと歴史・史実とか役者とか脚本のスタンスを知っていたら、創作とか関係なく素直に世界観に入り込めたらもっと視野が広く見ていたら面白さも段違いなんだろうな~と視聴後に思います。そこだけいつもちょっと悔しい。

ここまで読んでくださりありがとうございました~。

普段こんなに内にあるものを文字に起こさないので結構時間かかってた…のと、段々正気に戻ってきて少々羞恥心が出てきてるアチ~。

どうしても文章が下手くそ…言葉が下手くそで、長い割に実の無い話をしてしまうので途中でいいかな…っていつも簡単に置き換えてしまうんですよね。自信が無くてトホホ。

SNSのハッシュタグの方が教養溢れる感想や考察してる方いっぱいなのでもし興味湧いたら見てみてください。おもしろいので。

大河ドラマ、いつも大きなものを得ることが出来て欠かせないものになってきました。

来年の豊臣兄弟も楽しみ~。

べらぼう、総集編は29日午後0時15分からです。

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